2020年上田11/22-10-
2021-03-28
信濃国分寺駅までくれば、信濃国分寺までの案内が見えてきます。

奈良時代の国家的プロジェクト、信濃国分寺は、この地に建てられました。
7回にわたる発掘調査により、並び建てられた僧寺・尼寺の伽藍の全容が
ほぼ解明されたそうです。
現在は、しなの鉄道の線路や、国道18号が敷地の中を通っているんですね。

現在も発掘調査中のため、このエリアは立ち入り禁止。

いっぽう現在の国分寺は、源頼朝の命で復興したと言われ、ほど近い場所へ移転しています。
こちらが、仁王門。
脇からも本堂へ行けますが、せっかくなので仁王門を通っていきましょう。

仁王門から本堂までの道。
住宅地の中を歩きます。

左側に白壁が現れました。
白壁の中には、阿弥陀仏殿と社務所があります。

こちらは一般公開されていません。

本堂が見えてきました。

まずは手水舎へ。

本堂を右にそれると

三重塔(重要文化財)が建っています。
室町中期の建立で、高さ20.1メートル。
初層内部は四天柱を立て、大日如来坐像が安置されています。
心柱は、塔の中心に吊り下げられたような形になっていて
東京スカイツリーと同じ仕組みとのこと。

昭和7年〜8年にかけて、解体修理が行われた時に取り替えられた、三重塔の古心柱。

解体時の様子。

鐘樓。
上田藩主、松平伊賀守の後見により享和元年(1801年)棟上
(梵鐘は昭和27年の再鋳)。

そしてこちらが、本堂薬師堂(長野県宝)。
江戸末期の万延元年(1860年)竣工。
内部は、前側の外陣(参詣の空間)と、奥の内陣(仏の空間)にわかれ
本尊の薬師如来のほか、日光菩薩、月光菩薩及び、十二神将が安置されていて
近世の堂としては、東信地方最大の建造物だそうです。

大黒天堂。
輪王寺一品親王作と伝える尊像をまつり、大正13年再建。

第二次上田合戦時の、徳川秀忠(の家臣)と真田昌幸による停戦交渉の場が
ここ国分寺だと言われています。
正確な記録はないそうですが、「国分寺の会見」としてよく知られており
参拝者からも度々質問されるので、観音堂の前に、この碑が建てられたそうです。

もう少し時間があるので、信濃国分寺資料館へ行ってみましょう。

奈良時代の国家的プロジェクト、信濃国分寺は、この地に建てられました。
7回にわたる発掘調査により、並び建てられた僧寺・尼寺の伽藍の全容が
ほぼ解明されたそうです。
現在は、しなの鉄道の線路や、国道18号が敷地の中を通っているんですね。

現在も発掘調査中のため、このエリアは立ち入り禁止。

いっぽう現在の国分寺は、源頼朝の命で復興したと言われ、ほど近い場所へ移転しています。
こちらが、仁王門。
脇からも本堂へ行けますが、せっかくなので仁王門を通っていきましょう。

仁王門から本堂までの道。
住宅地の中を歩きます。

左側に白壁が現れました。
白壁の中には、阿弥陀仏殿と社務所があります。

こちらは一般公開されていません。

本堂が見えてきました。

まずは手水舎へ。

本堂を右にそれると

三重塔(重要文化財)が建っています。
室町中期の建立で、高さ20.1メートル。
初層内部は四天柱を立て、大日如来坐像が安置されています。
心柱は、塔の中心に吊り下げられたような形になっていて
東京スカイツリーと同じ仕組みとのこと。

昭和7年〜8年にかけて、解体修理が行われた時に取り替えられた、三重塔の古心柱。

解体時の様子。

鐘樓。
上田藩主、松平伊賀守の後見により享和元年(1801年)棟上
(梵鐘は昭和27年の再鋳)。

そしてこちらが、本堂薬師堂(長野県宝)。
江戸末期の万延元年(1860年)竣工。
内部は、前側の外陣(参詣の空間)と、奥の内陣(仏の空間)にわかれ
本尊の薬師如来のほか、日光菩薩、月光菩薩及び、十二神将が安置されていて
近世の堂としては、東信地方最大の建造物だそうです。

大黒天堂。
輪王寺一品親王作と伝える尊像をまつり、大正13年再建。

第二次上田合戦時の、徳川秀忠(の家臣)と真田昌幸による停戦交渉の場が
ここ国分寺だと言われています。
正確な記録はないそうですが、「国分寺の会見」としてよく知られており
参拝者からも度々質問されるので、観音堂の前に、この碑が建てられたそうです。

もう少し時間があるので、信濃国分寺資料館へ行ってみましょう。
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