2016年会津若松6/26-3-
2017/05/16 Tue. 21:37 [国内旅行]
さざえ堂から、少し下ったところにあったのは、戸ノ口堰洞穴。
慶応4年(1868年)戊辰戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎士中二番隊20名は
ここを潜り、飯盛山を目指しました。

元々は、猪苗代湖北西岸の戸ノ口から、会津盆地へ水を引くための
全長31kmの、用水堰だそうです。

戸ノ口堰洞穴のすぐ横には、厳島神社がありました。
もともとは宗像神社でしたが、明治になって改名されたとのこと。

紫陽花の咲く道を下り、飯盛山を後にします。

ふたたび自転車をこぎ、会津若松市内に戻ってきました。

次の目的地は、お堀に囲まれています。

まずは、桝形に入ります。
戦国時代なら、三方から攻撃されてしまうところですが
平和な現代のこと、Oつがいはのんびりと通過。

武者走りの石垣。

お堀の横を通り、桝形を抜け、武者走りを過ぎると
鶴ヶ城の天守閣に到着しました。

それでは入城。
入ってすぐの空間は、冷涼な環境を利用し、貯蔵庫として使われていたため
塩蔵と呼ばれていました。

天守閣からの風景。
会津若松の街並みが、よく見えます。
手前に見えているのは、復元された、南走長屋・干飯櫓。

天守閣から、南走長屋・干飯櫓へ向かいます。
途中には、お土産コーナーがあり

南走長屋の長い廊下を渡ると

途中には、武器が置かれています。

鉄砲で、外の敵を狙えるようになっていたり

こちらは、石落とし。
お人形がリアルに頑張っています。

干飯櫓を出た後は、場内を一回り散策。

馬洗石。
この辺りには、訓練のための馬場があったそうです。

鐘撞堂。
時守を置き、江戸流の鐘のつき方で、昼夜時刻を城下に報じていた堂で
戊辰の役の際も、開城間際まで、正確に時を報じたとのこと。

石垣の上にある鐘撞堂から見おろすと、他のお城と同じように
道がクランク状になっていて、天守閣へ一直線に進めない造りになっていました。

それでは、帰りの電車の時間までに、昼食とお土産探しです。
慶応4年(1868年)戊辰戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎士中二番隊20名は
ここを潜り、飯盛山を目指しました。

元々は、猪苗代湖北西岸の戸ノ口から、会津盆地へ水を引くための
全長31kmの、用水堰だそうです。

戸ノ口堰洞穴のすぐ横には、厳島神社がありました。
もともとは宗像神社でしたが、明治になって改名されたとのこと。

紫陽花の咲く道を下り、飯盛山を後にします。

ふたたび自転車をこぎ、会津若松市内に戻ってきました。

次の目的地は、お堀に囲まれています。

まずは、桝形に入ります。
戦国時代なら、三方から攻撃されてしまうところですが
平和な現代のこと、Oつがいはのんびりと通過。

武者走りの石垣。

お堀の横を通り、桝形を抜け、武者走りを過ぎると
鶴ヶ城の天守閣に到着しました。

それでは入城。
入ってすぐの空間は、冷涼な環境を利用し、貯蔵庫として使われていたため
塩蔵と呼ばれていました。

天守閣からの風景。
会津若松の街並みが、よく見えます。
手前に見えているのは、復元された、南走長屋・干飯櫓。

天守閣から、南走長屋・干飯櫓へ向かいます。
途中には、お土産コーナーがあり

南走長屋の長い廊下を渡ると

途中には、武器が置かれています。

鉄砲で、外の敵を狙えるようになっていたり

こちらは、石落とし。
お人形がリアルに頑張っています。

干飯櫓を出た後は、場内を一回り散策。

馬洗石。
この辺りには、訓練のための馬場があったそうです。

鐘撞堂。
時守を置き、江戸流の鐘のつき方で、昼夜時刻を城下に報じていた堂で
戊辰の役の際も、開城間際まで、正確に時を報じたとのこと。

石垣の上にある鐘撞堂から見おろすと、他のお城と同じように
道がクランク状になっていて、天守閣へ一直線に進めない造りになっていました。

それでは、帰りの電車の時間までに、昼食とお土産探しです。
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